揺れる事件報道

山口県の女子学生殺人事件で、自殺した容疑者の名前や顔写真を出すべきかどうか、メディアの間で判断が揺れている。容疑者が19歳の「少年」だったことから指名手配中も匿名で報道されてきたが、自殺が確認されたことで少年法にいう「少年の保護・更生」の機会が消滅した、とするのが実名に切り替えた社の大きな根拠だ。
実名報道に回ったのは、読売新聞、日本テレビテレビ朝日。他は、その後も匿名報道を続けている。実名に転換した社にも、匿名継続の社にも、それぞれ言い分があり、それなりに熟慮したうえでの判断に違いない。この事件では、警察が容疑者を特定した時点から、匿名による「指名」手配をめぐって論議が起きていた。この段階では、被疑少年の人権か、身柄の確保か、どちらを優先すべきか、というのが争点だった。
犯罪報道の現場では、実名・匿名の線引きは毎回頭を痛める大きな問題だ。京都市内で強盗強姦事件が起きた時のこと。被害者の名前の扱いが社によって分かれた。片や、強姦被害に触れず強盗の事実だけ書いて実名に。もう一方は、強盗・強姦の事実を書いたうえで匿名にした。「周辺の人たちはすでに事件発生を知っている。匿名にすると、かえって興味本位の憶測を助長する」というのが前者の立場、「事件の全容を書くことが重要で、そのためには匿名が当然」というのが後者の立場だった。この場合も、双方がそれなりの理屈を主張した。
両事件に共通しているのは、すべての報道を読み合わせたら、みんな分かってしまうということだ。山口の場合は容疑者、京都の例は被害者だが、どちらにしても「書かれる立場」よりも「書く立場」の論理が判断のもとになっている。各社がそれぞれの責任と判断で報道に当たるのは大原則だが、この種の事件でそれに固執しすぎると「木を見て森を見ず」、結局は「頭隠して尻隠さず」で「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」の愚を犯すことにもなりかねない。
千差万別の事件をひとつの基準でくくるのは不可能だが、できる範囲で日ごろから各社間で論議を重ねておく必要がある。今回の事件で法務省が少年事件報道について「検討」する方針を示しているが、メディアがお上頼みでは恥ずかしい。