敬老の日

敬老の日」を前にすると、顔を思い出す先輩がいる。もう定年退職してしまったが、その彼が現役のころ、いつもこの日が近づくと嘆いていた。「また、騒がしくなる」
彼の父親は、元瓦ふき職人で、京都府から顕彰されるほどの腕前だったらしい。「騒がしくなる」のは、その父親が地域の最高齢者だったからだ。もう亡くなって数年たつが、当時で90数歳、もうちょっとで百歳に届こうかという長寿だった。
敬老の日」近くになると、必ず新聞やテレビの取材が家に来る。市長さんも座布団などのプレゼントを持って訪れる。そのたびに彼は老父に代わって取材を受けたり、応対に出ていたらしい。
「長生きを祝っていただくのはうれしいけど、毎年同じでね。おいくつになられましたか、長生きの秘けつは、好物は、趣味は…同じことを聞かれて、同じことを繰り返す。たいがい疲れるよ」とうんざりした様子だった。
厚労省が、43年間続けてきた「長寿番付」の公表を今年から廃止した。「公表を希望しない人が増えてきた」というのがその理由だという。背景には、昨今の個人情報保護の流れもあるのだろう。ご本人の希望もさることながら、高齢者を抱える家族の意思もあるに違いない。
ひとくちに高齢者といっても、元気な人もいれば寝たきりの人もいる。長生きイコール長寿、と言いきれない厳しい現実がある。世界一とも言われる「長寿社会」の裏側で、孤老、棄老、果ては介護に疲れた高齢者が高齢者を殺すといった悲惨な事件まで起きている。確かに「番付」などと浮かれている時代ではないのかもしれない。
今年から原則として65歳以上の人数だけが公表される。上のような事情を考えればやむを得ないとも思うが、その一方で、だからこそ乾いた統計数字だけで片付けてよいのだろうかという疑問を持つ。
長い人生、百人いれば百通りの生き方がある。あのキンさん、ギンさんのしわくちゃ顔に慰められたり、励まされたりした人は多いはずだ。「敬老の日」は、ただ高齢者を「長寿」と持ち上げるだけでなく、喜びも悲しみも含めた生の姿から学び、自らがたどる道を考える日としたい。この道はいつか来た道、いつか行く道。