国体簡素化

「若い力」のメロディーに乗って、きょうから「のじぎく兵庫国体」が開幕した。戦後の国土復興とスポーツ振興をスローガンに都道府県持ち回りで開催してきた国体も、今大会で61回を数える。
2巡目に入った1988年以降、今回の兵庫国体には「初」の試みが2つある。ひとつは、一部競技の「県外開催」、もうひとつは夏季・秋季大会の一本化だ。どちらも開催に伴う地元負担を軽くしようという狙いだ。
苦しい地方財政の下、国体の簡素化は02年の高知県以来、徐々にではあるが進みつつある。道路や施設のなかったころとは違い、本来の「体育大会」として施設面でも運営面でもなるべくスリムにしようとするのは当然だ。
今度の国体では、夏・秋一本化で運営にかかわる経費や人手の負担を減らし、大会後の施設利用が見込みにくいライフル射撃クレー射撃を隣接の大阪府岡山県の既存施設で行う。ともに前例のない取り組みで、関係者の間には若干の戸惑いや抵抗もあったと聞くが、なんとか同意を得られてよかった。
それでも今大会の総事業費は、運営費を含めて179億円が見込まれている。昨年の岡山大会より83億円少ないと県国体局の幹部は胸を張っているそうだが、まだまだ落とせるぜい肉はありそうだ。
国体主催県は、何年も前から選手強化に取り組む。関係者に言わせれば「スポーツのすそ野を広げる」ためで、今回の兵庫も今年度までの9年簡に35億円をかけたといわれる。有力選手を県職員や企業に引き抜き、総合優勝を狙う。スポーツなのだから、勝つにこしたことはないが、そんなにカネをかけてまで地元勢に勝ってほしいと願っている県民が何人いるだろう。
「体育大会」としての位置づけも、いまの国体は中途半端だ。世界を狙うような一流選手は、まず出場しない。かといって「国民」のだれもが出られるわけでもない。結局、毎回同じようなレベルの同じような選手が集う。今回も人気の高校野球を除けば、あとは関係者だけの競技会に終わるのだろう。
開幕したばかりの兵庫国体には申し訳ないが、そろそろ簡素化を越えて存続そのものについても論議すべき時ではないか。