高校未履修問題

どうも分からない。高校の必修科目未履修問題である。富山を発端に、全国に波及した時から考えている。いったい、どこに問題があるのか。だれに責任があるのか。
はじめから履修させていなかった学校側に問題があるのは明らかだ。それを履修したように入試書類を整えて大学受験をさせていたとすれば虚偽文書作成、犯罪行為に近い。しかし、これだけ多数の学校が「不正」をしていたのに都道府県や市町村の教育委員会が気づかなかった、あるいは見逃していたとすれば、これまた職務怠慢、場合によっては「共犯」としての責任が問われよう。
高校側にも言い分がある。小・中学校の「ゆとり教育」のツケが高校に回ってきて、基礎教育と受験教育の両立に無理があるという。ならば、そうした教育課程を組んだ文科省も責任は免れまい。問題は、学習指導要領そのものにまで及ぶ。
大学側も知らん顔ではすまされない。志願者が集まりやすいように受験科目を減らす大学・学部が少なくないそうだ。少子化の進行で学生確保に各大学が「特色」を競うのはよいが、受験生確保への「迎合」となれば論外である。
受験生側には問題ないのか。少しでも楽な受験を目指したいという気持ちは分かるが、受験に役に立つか立たないかだけで科目を選んでいないだろうか。保護者も、基礎教育より受験対策を学校側に求めてきたことはないのか。
そもそも「学歴」や「大学名」をまだありがたがっている役所や企業、大学ランキングをあおるマスコミにも…。もう、よそう。問題の所在を突き詰めれば、いまの社会全体のあり方にまでかかわってくる。「決まりを守ろう」「ずるいことをしてはいけない」と教えるのが教育の根本だ。それが「効率」優先の末に「不正」を働き「法令順守」を求められる−これでは企業の不祥事と変わりない。
結局「受験生救済」の名の下に、補習時間の短縮で政治決着が図られる見通しのようだ。「大人の決着」との見出しをつけた新聞もあるが、足して2で割るあいまいな決着を「大人」などと言われてはかなわない。
くしくも同じ日の新聞に、漢字研究に打ち込み94歳で文化勲章を受けた白川静立命館大名誉教授の訃報が載った。夜間大学に通い、独学を重ねて晩年に金字塔を打ち立てた白川さんは「逆風に向かって飛べ」と口にしていたそうだ。今こそかみしめたい、真の「大人(たいじん)」の言葉だと思う。