平成の答礼人形

「答礼人形」という言葉を初めて知った。
先週末、東京・浅草橋の老舗人形店をのぞいた時のこと。何気なく入った店内の2階で市松人形の展示会をやっていた。その一角で「平成の答礼人形『人形大使』」展が催されていたのだ。
別に人形に関心があるわけではない。界わいを歩き回って、疲れた足を休めたくて、通りがかりに立ち寄っただけである。
ところが、展示を見て驚いた。幼児の背丈ほどの大きな市松人形がずらりと20体ばかり並んでいる=写真左=。どれもおかっぱ頭のかわいい女の子、色とりどりの着物姿で、それぞれ表情が微妙に違う。
張り紙の説明=写真右=を読んで、やっと意味が分かった。1927(昭和2)年、米国内の日本人移民排斥運動に胸を痛めた米国人宣教師の呼びかけで全米から1万2000体にも上る人形が集められ、日本に送られた。有名な「青い目の人形」だ。その際、日本から「お返し」として米国に送られたのが、52体の市松人形だった。国と国が険悪なムードでにらみ合う中、かわいい人形を介したやりとりは両国民の心を打ち、日本では童謡にまでなった。
その復刻を、と企画されたのがこの展覧会だ。主催したのは「市松人形たくみ会」。昭和初期には全国で80人もいた市松人形師は、いまや東京を中心に10人ほどしかいないという。2年前にその人たちが集まって会を結成、伝統技術の継承と人形文化の復興を目指している。
展示されている人形は、すべて会員の制作で、当時のものと同じ82cmの大きさに作られた。いまなお戦火の絶えない地球上に平和のメッセージを込め、希望があればどこの国や地域にでも贈りたいという。
「青い目の人形」は日本各地の小学校に配られたが、太平洋戦争のぼっ発とともに敵視され、捨てられたり、隠されたりした。日本から渡った「答礼人形」の消息も定かではない。
日米のかわいい人形が太平洋を行き交ってから、来年で80年になる。不幸にも国同士の対立に巻き込まれ、ほんろうされた初代にかわって「平成の人形大使」が各地に平和の笑顔を広げてくれることを祈りたい。