「教育の憲法」改正

教育基本法の改正案が、きのう衆院を通過した。野党欠席のまま、与党の賛成多数による可決だった。
かりそめにも「教育の憲法」と呼ばれる法の改正だ。こんな形で片付けられてよいのかと思う。
現行の教育基本法が施行されたのは1947(昭和22)年。いまの70歳以下の人は、ほとんどこの基本法の下で義務教育を受けてきたことになる。小学校の学級会などで「民主主義」「多数決」「男女平等」と繰り返し教え込まれた覚えがある。「多数決」は「少数意見の尊重」が前提だったはずだ。
戦前の軍国主義教育に対する反省から「個人の尊厳」など理想に燃えてつくられた基本法だが、60年の歳月を経て時代とのズレが生じている。個性を尊重するあまり、公徳心が著しく低下した。駅や電車の中などちょっと周りを見回しただけでも、その例はいくらでも挙げられる。
学校現場の疲弊、荒廃は極限に近い。いま問題になっている高校未履修や「いじめ」なども、その根っこをたぐれば学校だけでなく、家庭や社会にまで行き着く。いつまでもその責任をひとり学校だけに押し付けておいてよいはずがない。戦後教育の「総決算」をする時期に来ているのは間違いない。
通常国会から続いた教育基本法特別委員会の審議は100時間を超した。改正案の目玉である「愛国心」をめぐる論議も行われた。これで与党は「審議は尽くした」としている。しかし、60年間のサビを落とすのに十分だったかどうか。
途中から高校未履修問題の発覚や「いじめ」による自殺が相次ぎ、「国民の声に耳を傾ける」はずだった教育改革タウンミーティングでの「やらせ」や「サクラ」工作まで明るみに出た。野党はここを先途と政府の失点攻撃に矛先を向けたが、結果的に本筋の法改正論議がかすんでしまった。
このまま改正法案が成立しても、その「肉付け」はこれからだ。目前に迫った沖縄県知事選から来春の統一地方選、夏の参院選へと与野党はしのぎを削るが、いやしくも「教育」を政争の具にしてほしくない。与野党の立場を超えて、戦後教育を洗い直し、新時代への道筋をつける機会にしてもらいたい。