「夜学」消灯

京都・鴨川の丸太町橋西岸あたりは「三本木(さんぼんぎ)」と呼ばれ、幕末には勤王志士らが密会する遊興街だった。1900(明治33)年、その一角の料亭「清輝楼」を間借りして「京都法政学校」が産声を上げた。立命館大学の前身である。
3年制の夜間学校で、前年にできた京都法科大学(後の京大)の教授陣をそっくり借り受けてのスタートだった。その流れを引く立命館大の「昼夜間コース」が今年度限りで廃止されることになり、ゆうべ最後の夜間講義が行われた。
京都市京都府警の知り合いにも立命館大の二部(夜間)で学び、後に要職に就いた人は多い。種々の事情で昼間の大学には通えず、昼働いて夜に勉強した。「勤労学生」と呼ばれ、苦労人が多い。
二部は95年度に廃止、昼夜間コースとして存続していたが、志願者数は減り続け、打ち切りのやむなきに至った。最終講義を受けた人は22人。決して「夜間」の意義がなくなったわけではないが、時代の流れはどうしようもない。
「勤労」「苦学生」といった言葉に代わって「フリーター」「ニート」がうんぬんされる。働くことや学ぶことに対する価値観が変わり、多様化しつつある。
夜間教室が閉じられる前日、くしくも「集団就職」の若者を歌った「あゝ上野駅」の井沢八郎さんが亡くなった。