凶弾を憎む

「銃と自由」。米国社会を語る言葉として、しばしば使われる。自分の身は自分で守る。米国憲法では「武装の権利」が認められている。しかし、一方では年間3万もの人が銃の犠牲になっている現状に、開拓時代以来のこの「権利」」を見直そうという動きも出始めている。
そんな中で、きのう東部のバージニア工科大で2件の銃乱射があり、学生ら32人が殺害されるという事件が発生した。米国のメディアは「史上最悪の事件」と伝えている。
日本のマスコミがこぞって米国の銃社会の「病巣」を取り上げていたら、そこへ「長崎市長、銃撃さる」のニュースが飛び込んできた。長崎市長への銃撃は2代続きだ。前回の犯人は右翼、今回は暴力団幹部だった。市長は、けさ亡くなった。
銃規制下の日本でも、年間100件前後の発砲事件が起き、毎年300丁以上の拳銃が押収されている。これらは氷山の一角で、暴力団などに出回っている銃はこの何十倍もの数に上ると見るべきだろう。
事件の報告を受けた安倍首相の談話は「厳正な捜査が行われ、真相が究明されることを望む」という通り一遍のものだった。けさになって「民主主義に対する挑戦で断じて許すわけにはいかない」に切り替わったが、ただちに夫人同伴で被害大学の追悼式典に駆けつけたブッシュ大統領に比べて、わが首相の「感度」の鈍さが気になった。
銃社会の恐怖は「対岸の火事」ではない。凶弾を憎む。