追悼、阿久悠

物書きの端くれとして、作詞家阿久悠はずっと気になる存在だった。
「骨のある言葉」。阿久悠の詞には、そんな印象が強い。ごつごつとして、つるりとは飲み込めない。バリバリと音を立ててかみ砕く中からじんわりとした味がしみ出てくる。その味はかむ人によってさまざま、それでいてだれもがうまさを共感する。
彼は「心に滲みる歌」ではなく「心を叩く歌」を求めた。それまでの五七五の美文調の歌詞とは明らかに一線を画し、聞き手の心をたたき、激しく揺さぶった。
謡曲はリアクションの芸術だと言っていた。「送り手がいかに意欲的であり情熱的であっても、リアクションがないかぎり何の価値もない。毎日、ひとつでもふたつでも、はねかえってくることを祈りながらボールを投げ続ける」(岩波新書『書き下ろし歌謡曲』)
ボールをぶつけるべき壁、はねかえしてくる壁を阿久悠は「時代の飢餓感」と呼ぶ。いま何が欠けているのか、何がほしいのか。その「飢餓」の部分にボールが的中したとき、歌が時代をとらえるのだと書いている。
「愛も、幸福も、悲しみも、淋しさも、怒りも、痛みも、何かの事情で隠れてしまっているのが現代なんじゃないか。少し化粧を落としてみたり、少し脱いでみたりしたら、そうすれば少し楽しく、少しのびのび心を開けるんじゃないか」(同書)。
手がけた作品5千曲以上。時代と格闘して逝った天才作詞家の言葉を反すうしている。